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名古屋地方裁判所 昭和55年(わ)1990号 判決

被告人 足立正美こと足立晴子

昭二四・八・一七生 無職

主文

被告人を懲役四月に処する。

但し、この裁判の確定した日から一年間右刑の執行を猶予する。

訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和五五年一月二七日午後一一時ころ、鉄筋コンクリート四階建の集合住宅である名古屋市千種区春岡通二丁目二番地所在桜ビル四階四〇一号室被告人方居室において、居室に入つている都市ガスを吸つて自殺しようと図り、放出したガスが室外に漏れて他人に感知・発見されて自殺を妨げられるのを防ぐため玄関のドアの下部に取り付けられた郵便受けや、冷暖房機のホースを通してある寝室の壁の穴や防犯火災警報器にガムテープで目張りをしたうえ、台所の都市ガスの元栓からガスレンジに接続されていたゴムホースを切断するなどして準備のうえ、周囲の寝静まるのを待ち、翌二八日午前二時ころ、同所において、右元栓を開き、引続き同日午前六時三〇分ころまでの間、可燃性の都市ガスを放出させて右被告人方居室内に充満させてこれを漏出させ、これにより、ガスの臭いからガスの漏出に気づいた山本誠の通報により急きよ臨場した警察官巡査部長杉浦基純(当時三六年)、同巡査佐々木真三郎(当時三〇年)、及び右漏出に気づいた同ビルの住人岩口富男(当時三一年)、同藤原美代子(当時二一年)らが右居室内に昏倒していた被告人を救出するための作業に従事するに至つた際、同日午前六時四五分ころ、玄関のチエーンロツクを外して室内に入つた右佐々木巡査が室内が暗いため寝室の天井に取り付けられていたサークライン式螢光燈を点燈すべくその点滅器のひもを引つ張つたところ、これにより生じた電気火花で右居室内に充満していた都市ガスに引火、爆発するに至つたため、よつて、右居室内又はその近くにいた杉浦巡査部長に加療約一週間を要する右側頸部火傷、佐々木巡査に加療約二週間を要する顔面・頸部、両手火傷、岩口富男に加療約二週間を要する顔面・頸部・左手火傷、右大腿部打撲、藤原美代子に加療約二週間を要する顔面・頸部・前胸部・両手火傷の各傷害を負わせたものである。

(証拠の標目)(略)

(被告人のガス漏出行為と杉浦基純他三名の受傷との間に因果関係を認めた理由)

弁護人は、本件ガス爆発は、被害者佐々木真三郎の故意に近い重過失により発生したものであるから、被告人及び一般人には右爆発に至る予見可能性はなく、従つて被告人のガス漏出行為と杉浦基純他三名の受傷の間には刑法上の因果関係がない旨主張するのでこの点につき検討するに、

第一  関係証拠により認められる本件の事実関係は概ね次のとおりである。

一(イ)  桜ビル四〇四号室に居住する山本誠は、前同日午前六時一五分ころ出勤のため自室を出て階段を降りかけたところ、ガスの臭いが被告人の居住する四〇一号室付近からしていて同室のガスメーターが回つており、ガスの漏れる音がするのに気付き、出勤途上午前六時二〇分ころ近くの千種警察署今池派出所にその旨を届け出た。当時右派出所に勤務していた杉浦巡査部長と佐々木巡査の両名はこれを受理するや直ちに本署の外勤課指令担当の船戸清治巡査部長に報告し、右船戸から「ガスだから注意して処理に当れ。」との指示を受けた後、自転車で桜ビルに急行し、午前六時三五分ころ到着した。そこで直ちに四〇一号室へ赴き玄関ドアを開けようとしたが施錠がしてあつたので、杉浦巡査部長がスペアーキーを借りに二〇一号室の管理人室へ赴いた。

(ロ)  一方同ビル三〇一号室に居住する岩口富男及び藤原美代子の二人は、同日午前六時二〇分ころ、外出先から同ビルに帰宅したところ、ガスの臭いがするので不審に思い、一旦自室に入つたが再び外へ出て四〇一号室前に赴いて、同室からガスが漏れるのを確認した。

(ハ)  そのころ杉浦巡査部長が管理人からマスターキーを借り受けて四〇一号室前へ戻り、右キーを鍵穴へ差し込んで回したところ、ドアは開いたものの、内側からチエーンロツクがしてあつたため、ドアは少ししか開かなかつた。このとき佐々木巡査は玄関外壁上部に設けられたガスの元栓を閉めたのでガスの漏出は止つた。しかし四〇一号室にはガスが充満している状況であり、内部に人がおれば救出せねばならないと考えて、佐々木巡査は、ドアの把手を持つて何度も強く引張り、開けようとしたが杉浦巡査部長は火花でも散つて引火してはいけないと思い、佐々木巡査に対し、「静かにやれ」と指示した。佐々木巡査はドアの内側へ手を入れてチエーンロツクをはずそうとしたがなかなかはずれなかつたので、隣室の四〇二号室を開け、杉浦、佐々木、岩口の三名が入り、同室のベランダから四〇一号室のベランダへ渡つてガラス戸を開けようとしたが、内側から施錠してあつたので開けられず、再び四〇一号室前へ戻つた。その際岩口富男は四〇二号室のベランダでペンチを発見したのでそれで錠を切ろうと思い、四〇一号室前へ戻りチエーンをペンチで切断しようと佐々木巡査とともに試みたが切れなかつた。このとき杉浦巡査部長は、四〇二号室前付近の廊下で無線で本署と交信して状況を報告し指示を受けていたのであるが、岩口は先程四〇二号室のベランダにドライバーがあつたのを思い出し、これを取りに行つた。その間に佐々木巡査は、チエーンにペンチを差し込んで、こじあけようとしていると、チエーンがはずれたためドアが開いた。そこで佐々木巡査は、無線交信中の杉浦巡査部長に向つて「開きました。」と声をかけ、室内に人がいれば速やかに救助しなければならないと考えて、直ちにガスの充満している室内に入つたところ、奥の部屋でベツトに横たわつている被告人を発見したので救出しようとしたが室内が暗くてよく見えないため、とつさに目前にぶら下つている螢光燈のひもを引張つたところ点滅器の接点から放電火花が発生し、同室に充満していた都市ガスに引火、爆発するに至つたものである。

(ニ)  右爆発の結果四〇一号室内にいた佐々木巡査が加療約二週間を要する顔面、頸部、両手火傷、同岩口が加療約二週間を要する顔面、頸部、左手火傷、右大腿部打撲、同室玄関付近にいた杉浦巡査部長が加療約一週間を要する右側頸部火傷、同藤原が加療約二週間を要する顔面、頸部、前胸部、両手火傷の各傷害を負い、四〇一号室は天井、壁が崩れ落ち大破した。

二(イ)  ところで佐々木巡査は、

〈1〉 警察内部での教養で、ガスの充満している室内で螢光燈などの点滅器のひもを引張ることは爆発の原因になることを教わつていた。

〈2〉 今池派出所から出動する際杉浦巡査部長から「ガスだから注意して処理に当たるように」という注意を受けていた。

〈3〉 本件事故現場である四〇一号室のドアの把手を引張つていた際杉浦巡査部長から「静かにやれ」と注意を受けたが、これは火花が出ると爆発の危険性があるという意味での注意だと解釈した。

〈4〉 岩口富男が被告人に遅れて室内に入つたのであるがそのとき「電気つけたら危ないで」と言つて入つた(もつとも佐々木巡査にそれが聞こえたかどうかは明らかではない。)。

の知識や状況があつたのであるから室内の螢光燈のひもを引張るような引火・爆発を招来する行動は、厳につつしむべきであるにもかかわらず、室内を明るくしようとしてうつかり目の前にぶら下つている螢光燈のひもを引張つたものであつて右佐々木巡査の行為は明らかに、このような状況の場合における危険防止の注意義務を怠つた行為というべく、本件は被告人の行為が原因となつてはいるが、佐々木巡査の右介入によつて結果の発生を招いた事案であることは明白である。

第二  しかしこれを冷静に判断すれば、同巡査の行動は確かに警察官として軽卒であり重大ではあるけれども、一刻も早く人命を救助するために都市ガスの充満した室内に率先して挺身突入し、ベツトに倒れている被告人を発見するやこれを速やかに救出しようと没頭していた状況下において、日出前の時刻で室内が暗いため、たまたま目前にぶらさがつていた螢光燈のひもを瞬間的に引張つて通電させてしまつたものであつて、かかる急迫した緊急事態の下において冷静を欠き、人命救助を急ぐあまり、このような行動に出ることは、それが警察官の場合であつても、ありうることであり、通常予想される因果関係の展開の中に含められることであつて、全く予想外の意外な出来事とまでは、いえないと考えられる。のみならず、右過失行為は、被告人のガス漏出行為と全く無関係に独立して介入されたものではなく、まさに被告人のガス漏出行為によつて誘発され、被告人の救出行動中に惹起されたものである点にかんがみると、これにより因果関係は中断されたものとみるのは相当でなく、被告人のガス漏出行為と本件結果との間にはなお法律上の因果関係があるといわねばならない。

(法令の適用)

被告人の判示所為は各被害者ごとにいずれも刑法一一八条二項に該当するから同法一〇条により同法一一八条一項の罪と同法二〇四条の罪を比較し、重い後者の懲役刑又は罰金刑(ただし罰金等臨時措置法三条第一項一号)の刑に従い、右は一個の行為で四個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により犯情のもつとも重い岩口富男に対する罪の刑で処断することとし、所定刑中懲役刑を選択し、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役四月に処し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の確定した日から一年間右の刑の執行を猶予することとし、訴訟費用は、刑事訴訟法一八一条一項本文により全部これを被告人に負担させることとする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が多数の住民の居住する集合住宅の一室でいわゆるガス自殺を図り、都市ガスを室内に漏出させ、その生命・身体・財産に多大な危険を与えたうえ、佐々木巡査の介入があつたとはいえ右都市ガスを爆発せしめ、前記四名の者に傷害を負わせたというもので、被告人が自殺するまでに至つた事情については同情できる点があつたにせよ右のような危険な方法を用いた責任は軽視できないというべきであるが、他方前記のとおり、本件ガス爆発の原因を作為したのは被告人であるが引火は、警察官であつて、かつ被害者の一人でもある佐々木巡査の職務執行上の過失行為の介入によるものであること、また幸いにもそれぞれの傷害の程度は比較的軽微であるうえ、岩口及び藤原両名の被害については金銭的に顛補されていること、本件ガス爆発現場である桜ビル四〇一号室の破損についても被告人の連帯保証人と同ビルの所有者との間に示談が成立してその損害が補顛されていること、被告人には前科前歴がなく、本件犯行に至つた経緯及び動機には同情すべき余地があり、再犯のおそれもうかがわれないことなど、被告人に有利な情状を考慮のうえ主文の刑を量定する。

よつて、主文のとおり判決する。

(裁判官 水谷富茂人)

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